茨木県では、角打ちのことを「トンパチ」と言っていたらしい。
酒と女に関しては評判が悪かった安吾であるが、「聖人」と呼ばれていた取手で、思うように書けなくて毎晩のように「トンパチ屋」に通って常連さんたちの話を聞いていたことを書いている。
最後に書いてある「教訓」がなかなかである。
以下、坂口安吾『居酒屋の聖人」(昭和17年初出)
我孫子(あびこ)から利根川をひとつ越すと、こゝはもう茨城県で、上野から五十六分しかかゝらぬのだが、取手(とりで)といふ町がある。
(中略)
この町では酒屋が居酒屋で、コップ酒を飲ませ、之れを『トンパチ』とよぶのである。酒屋の親爺の説によると『当八』の意で、一升の酒でコップに八杯しかとれぬ。つまり、一合以上並々とあつて盛りがいゝといふ意味ださうだ。コップ一杯十四銭位から十八九銭のところを上下してゐて、仕入れの値段で毎日のやうに変つてゐる。ひどく律儀な値段であるが、東京から出掛けてくる僕の友達は大概眼をつぶつたり息を殺したりして飲むやうな酒であつた。僕は愛用してゐた。
トンパチ屋の常連は、近所の百姓と工場の労務者達であつたが、百姓の酔態といふものは僕の想像を絶してゐた。(中略)
さうして、酔つ払ふと、まづ腕をまくりあげ、近衛をよんでこい、とか、総理大臣は何をしとる、とか、俺を総理大臣にしてみろ、とか、大概言ふことが極つてゐる、忽ち三人ぐらゐ総理大臣が出来上つて、各々当るべからざる気焔をあげ、政策が衝突して立廻りに及んだり、和睦して協力内閣が出来上つたり、とにかくトンパチ屋といふものは議会の食堂みたいなものだ。
(中略)
僕が取手にゐた時は全く自信を失つて、毎日焦りぬいてゐながら一字も書くことが出来ないといふ時でもあつた。毎日、ねてゐた。夕方になると、もつくり起きて、トンパチ屋へ行く。教訓。傍若無人に気焔をあげるべきである。間違つても聖人などゝよばれては金輪際仕事はできぬ。