角打ちは筑前国の江戸時代からの名物か

多七郎どんの角打

角打ちのことが昭和17年に刊行された「我等の枝光」(写真左)に所収されている。
昭和60年に再刊(写真右)されているが、どちらも手書きのガリ版刷りである。ここには、とても興味深いことがいくつか書いてある。

その中に「此の角打ちと云ふのは、筑前の國のお國自慢の名物の一つであつた」とあり、この話の舞台は「文久・慶応頃」とある。
この話が聞き伝えの昔話だけでなく、江戸時代の記録として何か残っていれば、角打ちは筑前の名物として江戸時代からあったと結論づけていいことになるが、残念ながら口から口への聞き伝えなのでそうはならない。
もう少し資料が欲しいところである。

また、この情景を見た殿様が「実に和かな事だ」と言われたので、お役人は見て見ぬふりをして準公然となったとある。
つまり、江戸時代は(も)角打ちはグレーゾーンでやっていたことになる。

他にも「小指で桝の泡を器用に解き廻して、桝の角から呑むのが無上の味ひであつた」とあり、作家上野英信が角打ちの正しい飲み方としてそう語っていたと息子の朱さんから聞いたことと一致する。

以下、「多七郎どんの角打」より

枝光の下の宮に、伊豫辺から來た岡崎多八と云ふ者があつた。
(略)
或る時親子打ち連れて酒屋の芳賀治作さん方に角打ちに登つて來た。抑々(そもそも)此の角打ちと云ふのは、筑前の國のお國自慢の名物の一つであつた。百姓、町人、其他、日雇に至るまで話合事、人に頼み事、凡ての纏(まつ)り事、勤労の中休み、仕事上がり、凡てが一寸、一合、二合半、五合、一舛と桝に入れて貰つて、小指で桝の泡を器用に解き廻して、桝の角から呑むのが無上の味ひであつた。此が一番楽しみであつた、と言ふことである。或る時殿様が御微行の砌(みぎり)此情景を見られて、實に和かな事であると仰せられたと言ふことである。それかあらぬかお役人は、見て見ぬ振りの行過ぎるのであつたので、只今で言へば凖公然であつた。扨(さ)て多八と多七郎の親子は、世間話をしながら酒屋の店に入つて來た。今日は多七郎収入が多かつたと見へて、一舛桝一杯の酒を頼んだので、酒屋の方でも少々驚いたが、一舛桝に波々泡をたヽせて、親子の前に差し出した。
多七郎 サー父(トト)さん早う口をつけなさい、多八 イヤまあお前から、サー父さんから、マーお前から、多七郎曰く、そんなら乃公(わし)が口をつけて毒見をしよう、と云つて桝を受取り、例の通り小指の先で泡を解き廻して口をつけた。桝の角からグーツ。
(略)
注)一舛桝・・・一升マス

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